改めて自分の登山をふりかえってみると、若い頃は職場の仲間と登ったり、山岳会に所属したりしていたが、40歳前後あたりからはほとんどが単独行だった。東京で勤務していた20代のとき、別々の相棒と2週連続で槍ヶ岳の頂上に立ったり、表銀座の山行や、南アルプスの大樺沢で先輩の作った冷や麦を食べたりと、仲間との思い出の写真がたくさん残っている。
しかしその後山岳写真に傾倒していくにつれて単独行が増えていった。写真撮影と団体行動が両立しないことがその理由だった。ここが撮影のチャンスと思うと前途を捨ててもその場所に留まり、やがて時間切れでその場所から下山せざるを得ないという場面も何度かあった。
仲間と頂上を踏んでそこからの景色を堪能し充実した山行の思い出を作るよりも、撮影の成果を得たかったのだ。これでは団体行動など最初から無理なのだ。山行ごとに撮影重視と登山重視のどちらかにメリハリを付けてなんて考えたこともあったが、そもそも山行の機会が減るなか、撮影を捨てるという選択肢はなかった。
撮りたい山の中には自分の登山スキルでは単独では無理という山も多く、そこはあきらめざるを得なかった。撮影を優先するあまりカーボンではなくアルミ製の三脚を持ったり、フルサイズカメラ一式を持ったりと、装備の重量も増えて登れる山にも限界があった。撮影よりも登山を優先して挑めば登れた山もあっただろう。例えば日高の山、自分はそのうちのほんの一部しか登っていない。今考えると、もっと工夫のしようがあっただろうにと思うのだが、後の祭りということか。
自分の蔵書のなかに市根井光悦氏の「日高山脈」がある。撮影後記を読むと大型カメラと三脚を担いで稜線上で一週間も撮影を続けたという趣旨の記述がある。氏の写真は受け狙いではなく、山と向き合った素直な心の表現のように思える。失礼ながら、自分が若いときはインパクトの少ない平凡な写真と見えていた。当時多かった山が赤や紫に染まる鮮やかで強烈な印象を受ける写真を指向していた自分にはその良さが理解できなかったのだ。
それが歳とともに、自分の指向が変わってきたのだ、決定的だったのは、層雲峡温泉にある「層雲峡・大雪山写真ミュージアム」を訪れたときのこと。自分が撮りたいと思っている写真と同じような写真が展示されていた。自分がピントグラスを見ているような感覚でそれらの写真をじっくりと見て回った。そして、自分ならこの景色を前にしてどう撮るだろうかと考えた。作者の意図にまんまとはまってしまったのかもしれない。
撮り方に自己主張が出るに従って、写真コンテストへの応募も止めてしまい、所属していた写真クラブからも遠ざかってしまった。"評価される写真"よりも"撮りたい写真"を撮るという気持ちが強くなったからだ。"見てもらって"、"良い評価を得る"ためには、そのための技術も必要で、また、テーマの考え方やモチーフの選定にも一定のセオリーというか王道の考え方があると思う。そのための勉強も努力も必要だ。自分も若いころは著名な写真家の写真集を擦り切れるまで見たり。彼らの著書を読んで写真の撮り方を学んだりもした。写真クラブへの参加もコンテストへの応募もその一貫といえる。
しかし、いつ頃からか、他人の評価を意識して流行りのモチーフを求めて撮影活動をすることに抵抗を感ずるようになったのだ。やがて撮った写真を見られることを意識から外して自分のために撮りたい写真を撮るようになった。"撮りたい写真"とは、人と違って圧倒的な時間軸の長さを持つ大自然だ。この人間とは異質な時間軸を持つ世界を人間の目で捉えたいのだ。
そんな考えもあってか撮る写真は写実的なものが多くなる。印象的な要素も魅力的なのだが、それを強く前面に出してしまうと現実からすなわち大自然の実体から離れた独創的な完成写真になってしまい、見る人の心に想像力を掻き立てる余地がなくなってしまう。モチーフの実態を捉えた写真の中に、見る人の心に印象的な要素が想像的に浮かび上がるような、導入的な要素を埋め込みたいというのが自分の理想なのだ。言うは易しだが...
黎明の摩周湖
大自然が相手となると"撮る"瞬間の前後の時間と作業が多くなり、一度の撮影旅行はある意味自分にとってのプロジェクトになる。そしてそこから、"結果がすべて"という考え方もいつの間にか変わってきた。1枚1枚の写真におぼろげな記憶の断片ではあっても撮った時の感動の余韻が残っている。あらためて過去の写真を見ると、その余韻が旨い珈琲の香りのように立ち上るのだ。