かなり前から、登りたいと思っていた山に「屏風岳」という標高1792.7mの山がある。
大雪湖の北に位置し、ニセイカウシュッペ山と武利岳の間に距離をとって存在している。
標高こそ両サイドの山には及ばないものの、日高のスカイラインに似た直線で鋭角な山容がひと際印象深い。
登山のアプローチとしては層雲峡の大函付近で石狩川の右岸に渡った位置がオーソドックスと思うが、この山には登山道が無く、普通に考えると沢筋を行くいわゆる沢登りか残雪期にしまった雪の上を行くしかない。しかし、真冬にスキーで登ったという記録もある。
急斜面のこの山はいずれの方法にしてもハードルが高く、とても自分には無理と、ずっと思い込んできた。
しかし、大雪の山に登るたびに石狩川の渓谷を挟んで対岸に聳えるこの山が目に入る。なんとも清々しい孤峰のいでたちは私の目を捉えて離さない。
登りたい、いや無理だの自問自答を繰り返すこと数十年、俗世間の事情に阻まれて結局トライすることなく、登山卒業の歳になってしまった。
思うに、この山に対する情熱が足りなかったのだろうか、しかし、ただ思っていただけではなく、具体的な登山計画を何度も作っていた。
結局プランは二つ、いずれも5月初旬の残雪期、一つ目は大函で右岸に渡った地点から急斜面の尾根に取り付き、スノーシューでひたすら尾根をトレースする。途中でたるむようなルートの変化にめげずに頂上稜線に達することができれば、あとは状況に合わせてアイゼンを使用。問題は、尾根とりつき直後の平均斜度45度で、雪の状況によってはルート選択に工夫が必要となる。
もう一つは大函橋の下流側右岸、国道のトンネルに入るまでの100mほどの間に沢に取り付けそうな場所がある。そこから沢を抜ければ、比較的傾斜の少ない斜面となって、尾根に続く。大函のルートとは別の顕著な尾根をたどり、標高1050m付近で合流する。
この二つ目のルートについては、実際に沢のとりつき地点を確認し、上に抜けられるとの確信を得た。
ということで、お蔵入りとなった登山計画を見直しながら、最近始めた俳句を作ってみた。
「駒草や雲湧き上がる未登峰」
赤岳中腹の駒草平から見た屏風岳を詠んだもので、"未踏"ではなく"未登"としたのは、"自分ごと"の意味。
武華山の稜線上にある標高約1700mのライオン岩、西側から見ると迫力ある岩峰になっている。国道39号線の旧武華トンネルの西側入り口付近から沢の奥にその迫力ある姿を見ることができた。
しかし、トンネルが付け替えられて、新トンネルの標高が下がり、アプローチ道からその雄姿を見ることができなくなった。
いつか、旧道を歩いてみようと思いつつ年月が経ってしまい、道路跡に植林が進み、林道として残っている部分も立ち入りが制限されるようになってしまった。
今回、ゲートから少し歩いて入れる程度のところから、樹林越しに何とか頂上部分を捉えることができた。
かつて、このライオン岩に登ったとき、頂上はキバナシャクナゲの群落で埋め尽くされていた。
今から56年前のこと...
アイヌの言葉で川が合流するところをペテウコピと言うそうだ。
私が生まれ育った北見市は常呂川と無加川が合流するところにある。その合流地点の中州を挟んで2本のつり橋があって、対岸に渡ったところの山裾には開拓時代からの古いお寺があり、その一帯が桜の名所になっていた。
私たちは「観音山」と言って、桜の時期の休日は、まるで行列を作るようにしてつり橋を渡って花見に出かけた。
随分昔のことで、揺れて危なかったつり橋は、その後コンクリート製のしっかりした歩道専用橋となり、さらにそれも劣化して今は片側のみ残っている。
時代の流れとともに車社会となり、山の上に展望台もでき、休日に歩いて花見に行く人たちの列も無くなった。通り抜けできなくなった片橋と観音山は昭和の歴史の中に埋没しつつある。
寺の裏山には原始林の中に多くの野仏があり、番号が付いていることから八十八か所巡りにちなんだものと思われる。
虫がいなくなる秋に落ち葉を踏みながら、一巡りするのも良いかもしれない。
原始林の中で荒れているところもあるかもしれないので単独での散策は避けた方がよいと思う。
写真3枚目は今はなき第一吊り橋
十勝三股は私が好んで行くところ
広い野原が広がっているだけで特に何もない。1軒のみ「三股山荘」という喫茶店が控え目に営業しているだけで、あとは荒れ野と言える状態。白樺並木に囲まれた国道は景勝地の日勝峠に向けて"さっ"と通り抜ける。
そんな十勝三股だが、原っぱの中の少し広くなったスペースに車をとめて、吹き抜ける心地よい風を浴びて深呼吸。
見渡すと、周りが全て山に囲まれている。カルデラのようにも見えるが、ちょっと不思議な地形で、西側のニペソツ山とウペペサンケ山は明らかに火山で、両山の中間にある丸山は活火山、そして東側のクマネシリ山塊も火山で、東から南側にかけて大きく湾曲した溶岩台地は大規模な溶岩噴火の跡と思う。そして、西から北東にかけて連なる石狩岳から三国山にかけては、どうも火山とは思えない。かつて石狩岳に登ったときのこと、登山口になる音更川上流の21の沢で、規模の大きな砂利の堆積層を見つけた。下流にあるはずの砂利がこんな原流域の地層の中にあるはずがないからだ。
地図の等高線を見ると、どちらかというと日高の山に似ているような気がする。高低差の少ない尾根が連なり、沢に向けて直線的に削られた地形で、ここはやはり火山というよりは隆起した地形ではないかと思う。
私には地質の知識がほとんどないので、いくつかの本を見てにわか勉強してみると、北海道は稚内から襟裳岬にかけてのラインでユーラシアプレートと北米プレートが接しているところ、東の北米プレートはさらに、2分して南半分が太平洋プレートとして南西方向に動いているとのこと。その南側の接点が日高山脈で、北西側の接点の奥まった部分がこの十勝三股付近ということの様だ。衝突によって隆起し、そのまま残っているのが石狩岳の山塊で、その割れ目から噴火したのが東西のニペソツとクマネシリの山塊ということで納得した。
三脚を立てて、フレームを決めた後は石狩岳と雲との絶妙な配置をひたすら待つ。景色を堪能しながら、旨いコーヒーを淹れ、リッチな時間を過ごすことができる。
ところで、この十勝三股は、かつて木材の搬出基地として栄え、たくさんの建物が建っていた。国鉄の駅もあった。そう士幌線の終着駅だ。
期しくも石狩岳の標高と同じ1967年ころ、私は住んでいた北見からバイクで置戸を経由して勝北峠を越えて十勝三股に入った。そのとき、いくつもの工場の煙突から煙が立ち上っていた。神社もあった。それまでの林道が鬱蒼として長い道のりだったため、活気ある街に出てほっとしたものだ。懐かしい記憶になっている。
夏にかけてこの荒れ野にルピナスが咲いている。昔は昇り藤と言っていた花だが、民家の庭に好んで植えられたものだ、その花が野に咲いているということは、かつてここに人が住んでいたということだ。短い歴史の北海道とはいえ、開拓の志を抱いて多くの人々が入植した。
へたな俳句とともにその写真を...
はじめて「フッキソウ」という草を見たのは、十勝の「六花の森」だった。
草というのは最初の印象で、正確にはツゲ科の常緑木本植物というそうだ。
常緑で肉厚のビロードのようなツヤツヤした葉を持ち、高さはせいぜい30cm程度、これで自分の庭を覆ったら雰囲気がよくなるのではと思い、帰宅後に電話で問い合わせてみた。丁寧に教えていただき、そこで初めて「フッキソウ」という名前を知った。
どこで入手できるのかと、あちこち探してみても店頭に置いている店は無かった。ネットで探して一鉢単位で販売しているところを見つけたが、庭を埋めるという目論見には合いそうにない。
あきらめかけていたところ、日頃から散歩で歩いている近所の森林公園の中に自生しているのを発見した。なんと、こんな身近なところにあるとは、しかし、ここは自然公園、植物の採取はもちろん禁止、そこで公園から外れた道端の草むらを探し回り、10株ほどのフッキソウを入手することができた。
調べてみると、日本全国に自生しているようで、いわば雑草のような存在で、わざわざ販売するようなものではないということなのかもしれない。店頭を探して見つからなかったことに納得した。
さて、そのフッキソウだが、庭で育ててみると、日陰を好むようで、日当たりのよいところに植えると、元気がなくなり、葉色も黄色くなって枯れていく。庭のブドウの木の下とかシャクナゲの木の影といったところに植えたものは元気に育っている。風で枝が揺れたときに日が当たるといった微妙な位置を好むようだということが分かった。
そこで、北側の玄関横の花壇に植えてみることにした。ここは、日当たりが悪いことから何を植えても育たなかった。わかる人は"わざわざ玄関に雑草を植えるとは"と思うのかもしれないが、私にとってはこのフッキソウのツヤのある葉が北側の玄関をイキイキとしてくれているようで気分がよい。
後年、六花の森を再訪したときは、フッキソウが激減していた。聞いてみると、日が当たりすぎて元気がなくなり、徐々に縮小していったとのこと。なるほど、グラウンドカバーとして育てるのは難しいようだ。
さらに数年後に東大雪の丸山に登山したときのこと、マイナーな山で登山道がないため沢沿いのルートを辿ったのだが、そのアプローチとなる古い林道跡を歩いていて、一面がフッキソウで覆われているところに出た。踏まないと先に進めないほどの密生状態だった。樹林帯の中で、空は木の枝で覆われているものの、林道跡のため、少しは日が差すことと、下草が比較的少なく、そこはフッキソウにとって理想的な環境なのだった。
さらに数年後、梅雨時に鎌倉の紫陽花を見に出かけた時のこと、長谷寺でまさにグラウンドカバー状態のフッキソウに出会った。境内の端の木陰付近に広がっていた。
いま、我が家の玄関のフッキソウは比較的日が当たり易い端の方が元気がないことから、ときどき庭の奥の元気な株と入れ替えをしている。
昭和50年代、石北本線の奥白滝~金華の間で工事関係の仕事をしていた時期がありました。
遠軽に拠点を構えて、沿線を車で行き来していたのですが、下白滝付近で、秋播き小麦のたわわに実った穂が強風にあおられて、まるで波が走るように、沢筋の線路に押し寄せていました。その度にドドーンという音が出ていました。
風は「やませ」といって、オホーツク海高気圧から吹き込む風で、海岸から沢筋に沿って石北の山々に向けて駆け上がるものです。
湿った海風で気温も低めになり、この風が出ると空も曇り、陰鬱な印象になります。
この沿線は、今や無人駅が並び、高度成長期には人気を博した北大雪スキー場も廃止されて久しくなりました。
へたな俳句とともにその風情を...
今から遡ること半世紀、卒業の前年に羅臼岳に登ったときのこと。
重い背中にあえぎながら森林帯を抜けて大沢にたどり着き、ガレ場の急登で大休止。そこで岩陰のチシマギキョウを見つけた。
この高山植物は白籏史朗の「山の花」で写真の作品として繰り返しよく見ていたため、すぐにそれとわかり、山で実物を見てその可憐な姿に感動したことを覚えている。
実は、この登山は来るべき就職に向けて将来の目標を再確認し、その実現を山に誓おうとすることも目的に入っていた。
しかし、時は高度成長期、急激な技術の進歩もあり、この山に誓った目標はその後意味を失い、結局、達成しなかった。
そして、70歳になって、あのチシマギキョウをもう一度見たくなった。
というか、この50年の成果はどうであったかを、けじめとして山に報告に行くべきと思うに至った。
今から4年前、49年ぶりの登山となった。
かのチシマギキョウは50年前と変わらず美しく、心を洗い流してくれた。
もう来ることは無いだろうこの山とチシマギキョウに分かれを告げて下山してきた